こ ん ぴ ら 絵 金 展
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[収録時間 3分]

   <解説> 絵金の表現世界と芝居絵

 高知県、特に赤岡町を中心とした香美郡の人々は幕末の土佐藩お抱え御用絵師、弘瀬金蔵(1812〜79,明治12)その人を親愛の情をこめて絵金と呼び、今にその作品ともども敬慕の念をもって顕彰している。その具体的な例が赤岡町あげての、毎年七月の第3土・日に恒例行事として催されているかの有名な「絵金祭り」であり、またつい最近新築開館した絵金蔵である。この絵金蔵は彼の偉業を讃え、その芸術文化を後世に伝えることを目的として、これまでの代表的な作品を一望に集め展示している。

 絵金こと弘瀬金蔵は文化9年、高知城下に髪結いの子として生まれた。幼少の頃から画才に秀で、藩絵師池添美雅に師事して狩野派の画風を学んだ。文政12年17歳の時、藩の特別な取り計らいにより江戸幕府御用絵師駿河台狩野派宗家洞白の許に入門した。2年有余という異例の速さで免許皆伝となり、師洞白の一字を与えられた彼は帰藩後、藩医林家の株を買って林洞意と名乗り、土佐藩御用絵師に取り立てられた。ところが19歳の若さでこのような出世を遂げたことに対する妬みによるものかどうか、その辺りは定かでないが不幸にも贋作事件に巻き込まれ、数年を経ずして折角のお抱え絵師の座を解かれるとともに、狩野鰍ま破門、林姓も剥奪されてご城下追放、流浪の身となった。その後、日陰者として社会の最底辺に身を置くことにより、彼は開放的な庶民のエネルギーと出会うことができた。こうして町絵師給金は誕生し、その個性を発揮することになる。

 上方方面を放浪の果てに絵金は、赤岡の伯母の家に身を寄せた。当時、天領直轄地以外での芝居興業は禁じられていた。しかし、長曾我部遺臣団の反山内体制の気風を内に秘めていた赤岡の回船問屋・商工業者たちの豊富な財力によって、天領を有する讃岐金毘羅の金毘羅大芝居(金丸座)から、上方役者を招いて芝居興業が行われていた。その赤岡の地で絵金は芝居絵に開眼し、大成したと言われている。


 給金の芝居絵は、彼の生存中から大衆の人気は高かったが、上層階級や知識人階層からは殆ど受け入れられなかった。絵金の没後、近代化という美名のもと、芝居絵と絵金の存在は抹殺された。無論、否定・抹殺されたのは絵金だけではない。明治新政府の脱亜入欧政策によって、歌舞伎は言うに及ばず能・狂言・人形浄瑠璃にいたるまで、民衆的な土壌に根ざした土着文化や伝統芸能は全て否定または修正された。文明開化に相応しくなく、近代化を妨げるという最も前近代的・短絡的な考えによるものであった。

 こうした流れの中で、終戦の1945年にいたるまで給金の名は、社会の表に出ることもなく、また芝居絵は町や村の祭りに飾られる程度で、氏子などごく一部の人々の鑑賞に限られていた。しかし、1966年、平凡社の雑誌「太陽」に取り上げられたのを切っ掛けに土佐の芝居絵は全国に知られ、絵金ブームを巻き起こした。その後、絵金とその芝居絵は、テレビ・舞台演劇・映画・画集等に登場し、かつて抹殺の憂き目に遭っていた絵金の存在とその芸術的価値が、現代においてあまねく知れ渡ったのである。

 名もなき庶民が産業・技術・文化・芸能・民俗・宗教など広汎な領域で果たした役割は大きい。支配階級は彼らの内に存在する力を恐れ、取締り抑圧しようとした。こうした体制の矛盾のなかに生きて、それを乗り越えようとする民衆のエネルギーが、絵金の表現世界にはあると考証され、高い評価をうけている。

  (参考文献/赤岡町教育委員会編集「絵金読本」、高知県立伊野商業高等学校講師高橋恵子氏著「絵金の芝居絵」)
「こんぴら絵金展」会場配布資料より

展示の様子
迫力あるタッチ
初詣は「こんぴらさん」へ (ポスター) 新しい芝居仕掛も再現された金丸座内部

 「こんぴら絵金展」が2006年1月3日〜2月5日まで開催、琴平町立ギャラリー・ACTことひらで開催。江戸時代末期赤岡町の豪商が旧金毘羅大芝居(金丸座)から役者を招いて行なった芝居を見て、金蔵が芝居絵に開眼したと言われていることから、琴平町文化協会が企画した。赤岡町の絵金祭りでは、夕暮れ時から、蝋燭の明りの中で町中の商店の前で展示されているが、こでは、会場の照明を落とし、ほのかなライト照明で、赤岡絵金祭りの雰囲気を再現し、おどろおどろしい迫力の襖絵が、10点余り展示されている。作品はすべてレプリカ。
  紹介HP ・「こんぴら絵金展」四国新聞HP
        ・「絵金祭り」赤岡町HP
        ・「絵金祭り」赤岡町商工会HP