高松城天守閣の復元はできるか シリーズ追跡
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風穴開いた「文化庁の壁」

 日本三大水城の一つに数えられ、明治時代に取り壊された高松城天守閣の復元に薄明かりが見え始めている。「資料が写真一枚しかない」とかたくなに拒否し続けてきた文化庁が今夏、高松市が国の構造改革特区に申請したのをきっかけに、文化財保護法で対応することも可能と態度を軟化させた。市は専門家でつくる整備検討委員会を近く設置し、二〇一〇年の着工を目指して準備を進めるという。「天守閣の再建は悲願」として有志による支援組織設立の動きが起こるなど、市民の関心も高まっている。文化庁の方針転換にはどんな事情があったのか。復元の可能性はどの程度か。資料はなぜ乏しいのか。過去に曲折を繰り返してきた高松城天守閣復元構想の新展開への焦点に迫る。

城下町の象徴 官民で機運盛り上げ 公募債発行や寄付集めも

17世紀半ばの高松城と城下町を俯瞰(ふかん)した「紙本著色(ちゃくしょく)高松城下図八曲屏風」
17世紀半ばの高松城と城下町を俯瞰(ふかん)した「紙本著色(ちゃくしょく)高松城下図八曲屏風」

 「文化庁の協力が得られると存じますので、復元の見通しはあると考えております」
 高松市の増田昌三市長は九月定例市議会の答弁で声を張り上げた。
 高松城天守閣の復元構想は文化財保護の目的に加え、城下町・高松のシンボルとして、にぎわいづくりの核にしたいとの願いが込められている。
 城跡の玉藻公園は国の史跡に指定され、現状を変更する場合には文化庁との協議が必要になる。しかし、資料不足を盾にした同庁の厚い壁を崩せず、これまでに何度も浮かんでは消えた。
 手詰まり状態に光を照らしたのが「小泉改革」。地域の特性に応じて規制緩和を行う構造改革特区の創設だった。市は増田市長のトップダウンで申請を決め、六月に「城が見えます高松特区」の名称で応募した。
 一カ月後、文化庁に呼ばれた市の担当職員は耳を疑った。「現在ある資料で一定の手順を踏んで復元計画を作成すれば、審議の対象とする」と告げられたのだ。
 市は結局、特区ではなく、国の補助が受けられる文化財保護法での復元にかける決断をした。「文化庁が歩み寄ってきているのに、心証を害するのは避けたかった」。

玉藻公園桜の馬場から見た高松城天主台。天守閣復元が実現すれば、背景のシンボルタワーやホテルとどんなコントラストを描くだろう=高松市玉藻町
玉藻公園桜の馬場から見た高松城天主台。天守閣復元が実現すれば、背景のシンボルタワーやホテルとどんなコントラストを描くだろう=高松市玉藻町

孤塁の天守台
 高松城、別名玉藻城は豊臣秀吉から讃岐の領主に命じられた生駒親正が一五八八年に築いた。江戸幕府の下、高松藩主となった松平頼重が一六七〇年、天守閣をひと回り大きい三層五階に建て替えた。最上層が上下に分かれ、上段が下段より大きい南蛮造りという珍しい型で知られる。
 松平家十一代の居城として威容を誇った城郭も明治維新で運命は一変、天守閣は老朽化による崩落を防ぐために一八八四年に取り壊された。城内は一九五四年に高松市が譲り受け、玉藻公園として整備、翌年から一般に開放している。
 天守閣は高さ約三十メートルで、内堀に突き出した浮島を思わせる石垣の上にあった。二の丸とは橋一本でつながる孤塁。跡地には頼重をまつった玉藻廟(びょう)が建てられたが、現在は神体は移され、社だけが残る。
 高松市は八〇年代半ばに、市議会の意を受け天守閣復元に動いた。外観姿図を含む構想を策定し、文化庁に提出したが、審議の対象にすらしてもらえなかった。九六年にも史跡高松城跡保存整備計画としてまとめたが、結果は変わらなかった。

復元より再建
 今年降ってわいたように天守閣再興の芽が出てきたことで、民間でも後押しする運動が起き始めた。香川証券の平井二郎会長は、出版社の文教社(高松市)の協力を得て資料を作成、地元経済人らに働き掛け、「玉藻城再建の会」(仮称)の設立準備を進めている。
 「海に面した名城は祖先の誇りでもあった。資料が乏しいといっても小倉城(北九州市)を参考に建てられたとされ、同じ津山城、岩国城(山口県岩国市)の絵図などが参考になるはず」
 平井会長の持論は「史実にすべて沿った『復元』は不可能。ならば、現実に即した夢の城に『再建』を」。木造による本格的復元にこだわるべきではないとし「市民が気軽に上がれる城でなければ。エレベーターを付けるなどバリアフリーへの対応も必要」と訴える。

120周年の目玉
 天守閣の復元には、計画の中身にもよるが数十億円の事業費が必要とみられる。
 高松市は「ミニ公募債の発行を検討しているほか、経済界や市民に寄付をお願いすることになるだろう。官民一体となって機運を盛り上げていきたい」と力を込める。
 高松中央商店街振興組合連合会の鹿庭幸男理事長も「商店街として全面的に応援しようという意気込みを持っている」と熱意を示す。市民からも「復元が決まれば協力したい」との申し出が市に相次いでいるという。
 天守閣着工を目指す二〇一〇年は高松市の市制施行百二十周年に当たる。完成までには四年程度かかる予定。市は各界の専門家を招いた整備検討委員会を年内にも立ち上げる考えで、人選の詰めを進めている。

他の城郭では 資料の多寡が分かれ目

現在の高松城位置図

 「伊予の小京都」と呼ばれる愛媛県大洲市で、大洲城天守閣の復元工事が行われている。天守閣は四層四階、戦後に復元された木造天守閣としては日本一の高さ(約一九メートル)を誇り、来年七月に完成する予定だ。
 大洲城は県史跡だが、国重要文化財の櫓(やぐら)と天守をつなぐ構想のため、同市は国の史跡並みの復元計画を策定。明治期に撮影した三方向からの写真、江戸初期に作られた構造模型など豊富な資料が綿密な計画を可能にした。
 「幸いにも資料が存在していたから実現した。高松城が難航している話も聞いていたので」(同市)
 岡山県津山市の津山城は高松城と同じ国指定の史跡。同市が木造二階建ての備中櫓の復元工事を進めている。
 備中櫓も間取りが詳細に判明する平面図などの資料に恵まれた。それでも文化庁の許可を得るまで、協議に三年間を費やしたという。
 天守閣に関しても高松城と異なり、復元に十分な資料がある。しかし、五十億円ともいう事業費に加えて、同市は「国史跡では文化庁が言う『史実に忠実』な復元の前例がなく実現は難しい」として慎重な姿勢だ。
 資料不足で復元計画が難航するケースは高松城だけではない。
 山形城(国史跡)は山形市が復元を手掛けているが、肝心の本丸御殿の資料が平面図だけで「写真がなければ復元は無理」と頭を悩ませる。
 財政に余裕がなく資料が見つかっても即復元といかないものの、可能性があるのとないのとでは大違い。「資料の発見に展望が開けるよう期待はしているんですが…」。高松市の担当者と同様の嘆きが聞かれた。

なぜ方針転換 市の特区申請で危機感 忠実に迫る調査成果を

 これまでの門前払いから一転、文化財保護法の下で復元の可能性を示してきた文化庁の柔軟姿勢の裏には、高松市の構造改革特区への申請が突破口になったことは間違いない。
 「でも、特区逃れと受け取られては困る。二本のレールがあり、高松市はどちらを選択することもできたのに、文化財保護法の下で復元する道を選んだんですから」
 文化庁記念物課によると、高松市の特区申請を受け同市から事情を聴くと、復元のための整備検討委員会を発足させ、新たな発掘調査や資料研究をするということだった。史実に基づく精度の高い復元計画を目指しているともいう。それなら、史跡指定されている公園全体の中核を成す天守閣部分だけ規制を外すようなことをしなくても、現行法の下で復元の可能性があることを説明した、という。
 特区とは規制緩和をして経済の活性化を図るのが目的。一方、文化財保護法は、文化遺産を守り、伝えるのが使命。文化庁は、特区については触れないが、「石垣などの遺構の破壊や、史実に基づかない“まやかしの復元”だけは困る」という危機感が、今回の方向転換の裏で働いたことは想像に難くない。
 文化庁が高松市に示したのは、史跡指定建造物の復元について検討する「復元検討委員会」での審議。学識経験者ら専門家九人で構成し、復元の可否について論議、検討する。「審議イコール、ゴーサインというのでは決してない。どれだけ高松市の委員会が復元に向けた調査研究の成果を出すかにかかっています」(同担当者)。
 調査研究の具体例としては、天守閣取り壊しの際、壁や柱などを埋め込んだ可能性がある基壇の発掘調査を挙げる。柱穴や建築材料などから建物の間口、柱の太さ、素材などが類推できる。このほか、天守閣について記述した文献も新たに見つかれば、補強材料になるはずという。
 「奈良平城京の朱雀門は、当然ながら写真一枚なかったが、復元するに足る多くの資料の裏付けがあって復元した。一つ一つを積み上げて、いかに史実に基づく精度の高い図面を描くかですね」と文化庁専門官。
 史跡指定の天守閣復元は、名古屋城や若松城(福島県会津若松市)などが鉄筋コンクリート造りで建てられたが、文化庁が文化財保護の要件を厳しくした一九六七年以降なされていない。
 高松城復元が文化庁の審議のテーブルに乗るのは全国で初めてのケース。やっと開いた開かずの門だが、前途は決して楽観できない。

図面はどこに 維新の動乱に消える? 遺構発掘に最後の期待

明治初期に高松城天守閣を撮影した写真。外観を伝える資料はこの1枚しかない
明治初期に高松城天守閣を撮影した写真。外観を伝える資料はこの1枚しかない

 明治初期に高松城天守閣を南東面から撮影した古い写真。天守閣復元のよりどころは、ただ一枚の写真しかない。
 高松市は瀬戸大橋開通を前に復元の機運が盛り上がった際、大掛かりな資料収集を実施。東京、大阪などの博物館や資料館を調べたが、新資料は発見できなかった。
 高松藩の家老や大工の子孫にも尋ねたが、結果は同じ。現在は、調査費がほとんどゼロという状態が続き、市民からの情報提供も望み薄だ。
 民間有志による「再建の会」設立を目指す香川証券の平井二郎会長は今春、江戸幕府の関連資料を保管している宮内庁に調査を依頼したが、回答は「所蔵なし」だった。
 図面や他の写真などの資料は、なぜ存在しないのか。理由は多分に推測も含まれるのだが、高松藩のお家事情という補助線を引くと面白い。
 初代藩主松平頼重は水戸黄門で知られる徳川光圀の兄で、幕府とは親密な関係。幕兵と薩長兵が戦い、明治維新を決定的にした鳥羽・伏見の戦いの結果、高松藩は朝敵とも一時見なされた。
 「高松百年史」によると、一八七〇、七一年の二回、明治政府に高松城の取り壊し願いが出されている。明治期に全国の城郭が廃城された一環でもあるが、立場をおもんぱかれば政府に気を使ったとも想像できる。
 独自に資料を収集している平井会長は「恭順の意を表すため、処分した資料も多かったのでは」と推理している。
 「明治維新のごたごたで資料が紛失した可能性はあり得る」と、郷土史家で「四国の城」の著書がある白川悟さん=善通寺市=は指摘する。
 もっとも「一番の理由は戦災でしょう。戦前の高松の寺の資料も数が少ないことを考えると、空襲で焼失したと判断するのが自然ではないか」。
 理由はどちらにせよ、「紙」の資料が見つかる可能性がなければ、残るは「物」の資料。天守閣跡の発掘調査に、いちるの望みがかかる。

 福岡茂樹、谷本昌憲、岩部芳樹が担当しました。

(2003年10月12日四国新聞掲載)

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