◆鎌倉・室町時代の京極氏
 京極氏は宇多天皇を祖とする近江源氏佐々木氏の分流で、鎌倉時代中頃(1241年)に佐々木信綱の 四男氏信が、北近江の愛知川以北六郡と柏原(山東町)の館を与えられ、京都京極高辻に屋敷を構えて 「京極氏」を名乗ったのに始まります。鎌倉時代は、近江守護佐々木六角氏の分家に過ぎませんでしたが、 南北朝の内乱での京極導誉の活躍により、室町時代になると、六角氏を凌ぐ勢力を持ちました。それは、山名 ・赤松・一色の各氏らとともに幕府の軍事力を担う侍所の所司に任ぜられる四職家として中央政権で重きをな し、さらに、北近江三郡のほか、飛騨・出雲・隠岐の守護職を兼ねていたことに象徴されます。また、導挙か ら五代後の持清は、文明元(1469)年、近江一国の守護に任ぜられ、京極氏の勢力を伸張させました。

◆戦国時代前半の京極氏
 鎌倉・室町期には中央政権の官僚的立場であった京極氏ですが、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱(1467年〜)以後は、北近江に本拠を構え、独自の権力体系を構築して、戦国大名として歩みはじめます。 そして、これに伴って館と家臣団屋敷を整備したのが京極氏館(伊吹町) であり、「詰の城」 である上平寺城 (桐ヶ城・刈安尾城) です。
 当初、京極氏の北近江支配は不安定で、特に持清の死後、その子高清(孫とも言われる)と政経が対立し、これに多賀氏や下坂氏など有力家臣の一族争いが加わって、混迷 を極めます。しかし、永正二(1505)年、日光寺(現在の近江町)の講和によって、高清が勝利し て、上平寺館を拠点に、高清を上坂家信が補佐する安定した政権が生まれます。

◆浅井氏の台頭と京極氏
 大永三(1523)年、「大吉寺梅本坊の公事」という事件が起こります。これは、高清政権を補佐 する上坂信光(家信の子)の専横に対する、浅見氏・浅井氏・三田村氏・掘氏など京極氏家臣のクーデタ ーです。家臣たちは高晴の長男・高広を新当主として推しますが、上坂氏に推された次男・高慶(吉)との対立を深めます。この乱によ り、上平寺館は焼失し廃絶したと考えられます。
 いっぽう、京極氏家臣団の中からは浅井氏が台頭し、浅井亮政は小谷城を本拠として次第に家臣団の盟主と 目されるようになります。亮政とその子久政は、天文末年頃(1550年代)まで、京極高広を北近江の守 護と認め「御屋形様」と呼んで、その政権を尊重しっつ戦国大名を果たしていきました。永禄三(1560)年浅井長政が家督を相続すると、京極政権の姿は記録上から消えます。

◆その後の京極氏
 その後、京極氏は高吉の系統から出た高次・高知兄弟によって再興されます。兄弟は秀吉・濠康に仕えて功 があり、丸亀藩・多度津藩(香川県)、宮津藩・峰山藩(京都府)・豊岡藩(兵庫県) の五つの大名 家として繁栄します。
 京極氏は、鎌倉時代から明治維新まで約650年間大名家として続いた、全国的にもまれな一族といえます 。




◆京極高次・高知兄弟の活躍
 安土桃山時代(織田・豊臣政権の頃で、近年は織豊期ともいう)から江戸時代にかけて、衰退していた京極家を再興したのは、京極高次と高知の兄弟です。
 上平寺城主京極高清の次男高吉は、元亀元(1570)年、八才になる息子高次を、織田信長のもとへ人質として送ります。信長軍で功を立てた高次は、蒲生郡奥島五千石を与えられ京極氏の再興を図ります。
 しかし、本能寺の変で明智光秀に呼応したため、一時不遇をかこちますが、その後、秀吉の知遇を得て、高島郡大溝城で五千石を与えられ、天正一八(1590)年、小田原攻めの勲功により八幡山城で二万八千石を与えられ、淀君の妹はつを娶ります。
 文禄四(1595)年、大津城六万石に移封され、ここで関ケ原の戦いを迎えますが、高次は東軍家康方につくことを決意し、大津城に龍城して、関ケ原へ向う西軍を食い止めました。また、弟高知は、当時信濃飯田で十万石を領しており、家康に同行して関ケ原で東軍側として戦闘に参加しました。
 この働きを認められ、高次は若狭一国を与えられ小浜城主となります。高知丹後宮津城主になり、とも江戸期京極氏の礎を築きます。

乱世を生き抜いた江北の雄 [ 発行:滋賀県教育委員会 ]より


 
 歴史講演京極高次と小浜城」 講師:若狭歴史民俗資料館 中島辰男 館長   講演内容はこちら


 歴史講演京極高次と小浜の城下町」 講師:小浜市企画調整課課長補佐 松川雅弘 氏
                                        講演記録Videoはこちら