丸 亀 街 道          こちらから

 金毘羅五街道のうち、いちばん往来のはげしかったのが丸亀街道といわれていいます。江戸や上方の善男善女は、大阪から金毘羅船に乗って丸亀港に着き、ここからこの道を、中府、郡家、与北、象郷を経て、金毘羅へと目指して行ったのです。俳人小林一茶、与謝蕪村などの多くの文人達もこの道を利用したのです。
 当時、金毘羅講が盛んで、講中では一定の講金を出しあい、くじ引きで当たった人から順にこんぴら参りをしたのです。現在も街道に残る寄進された灯ろうや玉垣に、「江戸千人講」「大阪繁栄講」などの名が見られ、金毘羅講の名残をとどめています。

  特集 江戸庶民も夢に見た 金毘羅詣で  ライト&ライフ 1999/12 (No.468) [四国電力発行]


幾千幾万の参拝者の賑わいが
今も聞こえる丸亀街道
 金毘羅さんに続く五街道のなかで、最も多くの参拝者が利用し、最も栄えた丸亀街道。
 今はもう行き来する旅人の姿も消えて、人通りも少なくなったこの街道沿いには、かつての賑わいを象徴する丁石や道標などの史跡が数多く残されており、街道を通り過ぎた幾千幾万の参拝者の哀歓が、今も流れ続けています。



丸に金の文字も鮮やかに
波上をすべる帆かけ船

 江戸時代、瀬戸内海は、東北地方と大阪を結ぶ、いわゆる当時の西まわり航路の通り道でもあり、また京阪神からの船が多く行き来する海の街道でもありました。
 文化年間に刊行された『金毘羅山名所図絵』に「金毘羅参詣の海路最上の船着なる故、諸国の諸人ここに集まる」と、記されたように、丸亀の港には、大阪や備前などから出航する、丸に大きな金の字が染め抜かれか金毘羅船をはじめとして、各地の物産や人を積み込んだ大小の船がひっきりなしに出入りしていました。
                 
      こんびら船々追い手に帆かけて
     しゅらしゅしゅしゅ
     まわれば四国は讃州那珂の郡
     象頭山、こんぴら大権現
     いちどまわれば・・・・。


 金毘羅詣に向かう船のなかで、はずむように唄われた、この讃岐の民謡は、当時の金毘羅参詣のにぎわいをよく伝えています。
 港には、夜間の船の航行を助けるため、太助燈籠と呼ばれる青銅製の燈籠が建てられ、早朝から夜にいたるまで、荷揚げの人足や、金毘羅参りの一行で、たいへんな混雑ぶりだったようです。
 この太助燈籠の一基は、現在でも丸亀港新堀の北岸に、かっての賑わいを懐かしむようにポッンと建っています。

一歩一歩の歩みをしるす
旅人にやさしい常夜燈

 さて、港から丸亀城を仰ぎみながら「左こんびら、右かはくち」などと書かれた道標をながめながら城下を通り抜けると、丸亀街道の入口を示す小さな起点石が立てられた中府に入ります。
石のすぐ南には、向かって右に「天下泰平」左に「海陸安穏」の文字が刻まれた一の鳥居が、丸亀街道の入口を示しています。
 一の鳥居の左右に建つ一対の石燈寵にはじまって、ここから金毘羅さんの鎮座する琴平の町までの、約三里の道程には、このような丁石や道標、燈籠などが数多く残されており、積年の風雨に曝されて、あるいは崩れ、あるいは苔むしてたたずむ道標や燈籠を見かけるたびに、これらを目印に金毘羅さんへと向かった当時の人々の姿が浮かんでくるような気がします。
 この丁石とは、街道の起点から何丁来たかを示すもので、一里塚をさらに短く縮めた目印の石のこと。一丁は八十メートルですから、三里の丸亀街道は百五十丁。街道沿いのあちことに建てられた丁石や道標には、あと何丁、あと何丁と金毘羅さんに近づいて行く参拝者の万感の思いが秘められています。また、常夜燈とは、案内なしの一人旅や、夜道を急ぐ金毘羅参りの旅人のために、全国各地の信者から奉納された明かり燈籠のことで、素朴で暖かい当時の人々の信仰心が、ひそやかに息づいています。



心ばかりの接待に
茶堂ではずむお国自慢

 街道沿いの道標にみちびかれて、金毘羅さんへと急ぐ参拝者の足休めの場として、街道沿いの各所には、お茶などの接待で旅人を持てなす茶堂があり、丸亀街道には、郡家、与北、公文の三ケ所に設けられていました。
 郡家の茶堂は、はじめ皇子の宮の参道東詰、東北の隅に建っていましたが、のちに神野神社の近くに移され、今でも堂の礎石が残されています。
 与北の茶堂は、丸亀街道のちょうど中間に位置し、もっとも重要な休息所として賑わった所。
かっての参拝者たちは、ここでお茶の接待を受けて、のんびりと一息ついたと思われます。
 金毘羅さんに奉納する大きな天狗の面を背負って、急ぎ足で参拝に向かう一団と、金毘羅さんの木札を背負って、逆方向から嬉々として歩いてくる参拝帰りの人々が、目の前を次々に行き交うなか、足を休める参拝者たちは、互いのお国自慢に、話の花を咲かせたことでしょう。
 現在、茶堂跡に建つ、黒住教会の屋根の瓦に一部には、当時の茶堂の瓦がそのまま使われており、かっての茶堂の賑わいを今に伝えています。ここには、街道の中間点を示す七十五丁石や高さ六十センチのたまご型をした手水鉢、そして丸亀の名石工・阿波屋甚七の手による高さ約七メ−トルを誇る、金毘羅街道最大の美しい石燈籠などが残されています。
 与北の山下の三叉路で道を通をとると、街道最後の茶堂である公文の茶堂跡に着きます。この茶堂は、明治のはじめに山手の吉祥寺に本堂として移建されましたが、現在の吉祥寺堂々たる本堂からも、かっての茶堂の立派さが想像されます。
 これらの茶堂は、ちょうど四国霊場めぐりのお遍路さんの世話をする接待堂とよく似ており、四国の風土のなかに、旅人を大切に迎え、世話をするといった、善意の気風が育まれていたことを静かに物語ってくれます。



海の神様、金毘羅さんは
今も昔も変わらぬ賑わい。

 讃岐平野の西のはし、緑ゆたかな象頭山の麓に広がる琴平は、金毘羅さんの門前町として古くから開けた町。町内には、高燈籠や鞘橋をはじめとする数多くの文化遺産や史跡が残されており、昔ながらの旅館や土産物屋がずらりと軒をならべている。
 うっそうとした樹木に囲まれて、象頭山の中腹に鎮座する金刀比羅宮は、海の守り神り神として全国にその名を知られ、年間四百万人を超える参拝客が訪れる讃岐随一の美しい古社です。
 広い境内には、本宮、旭社、絵馬堂、宝物館などがあり、四季おりおりの自然の雅趣にも恵まれています。
 近くには、金毘羅歌舞伎で知られる日本最古の歌舞伎小屋、旧金毘羅大芝居(金丸座)や、近代的な装いの海の科学館などがあり、金山寺山、山頂には、瀬戸大橋架橋の提唱者である、大久保ェ之丞の銅像が、はるかに美しい瀬戸内海をのぞむように建っています。


信心の思いを託した愛犬の
金毘羅参りの旅は遥かに

 安藤広重、与謝蕪村、十返舎一九、頼山陽をはじめとする、数多くの文人墨客によって、その旅の道すがらを描かれた丸亀街道。特に「江戸っ子だってねぇ、寿司食いねぇ」の船中のやりとりでお馴染みの、森の石松の金毘羅道中は有名です。
 石松も、実は親分の清水次郎長の代参で金毘羅参りにやって来たようですが、当時、金毘羅さんには、直接参拝することがかなわない人のために、また、町内や親族などを代表してお参りする、代参という習わしが広くおこなわれていました。
 初穂やお賽銭を入れた空樽に奉納金毘羅太権現″と書いた旗を立てて海に流し、これを見つけた漁船が拾いあげて、金刀比羅宮に奉納するという流し樽も、古くから行われていた代参の習わしのひとつ。
 なかでも一風変わっているのが、こんぴら狗と呼ばれる代参犬。金毘羅参りに行けないうえに、適当な代参人もいない人達が、一生に叫度の願いを込めて、首に金毘羅参りの木札と小銭の入った袋をぶらさげた愛犬を旅に出す、というもので、犬をみかけた旅人が、リレー式に引きなわをとり、袋の中の小銭でえさを買いあたえ、船にも乗せてやった、という感動的な話がいくつも残されています。
 このような参拝の旅は、江戸時代に自由に旅をすることが許されていなかった庶民にとって、唯一残された信心の旅といえるもので、東のお伊勢さんとならんで、金毘羅参りは、庶民がつかのまの日常から開放される一つの娯楽でもあり、また夢でもあったのではないでしょうか。

こんぴらみち( 旧丸亀街道) [ 発行/琴平町・琴平町商工会] より