*** 紙芝居 中村恭安の生涯 *** 


 この紙芝居は、「福翁自伝」に登場する、日本はじめてアンモニアを作った男、中村恭安を顕彰するため、彼の生涯を郷土史家石井擁大氏が脚本し、仁尾油絵同好会会員が挿絵を担当し、紙芝居として製作したものです。

 中村恭安は天保四年(1834)金刀比羅宮金光院に仕える医者の子として生れます。十六才の時、日柳燕石のすすめで詫間村富山凌雲に医術を学び、さらに嘉永五年(1853)緒方洪庵が開いた適塾に入門します。学業おおいに進み塾監に登用されます。恭安が入門して二年後、日本近代化の先駆者福沢諭吉が入門してきます。
 恭安や適塾の門人達は、ゴウシヤという薬を作るために、どうしてもアンモニアが欲しかった、しかし当時の日本の薬屋にある品物でなかったので、オランダの書物を参考に、原料の馬の爪を徳利に入れ蒸し焼きして抽出する時、たまらない悪臭を放ち、まわりの人々から散々な苦情が出て、大方はあきらめてしまったが、気の強い恭安等2〜3人は、窯を船に積み、淀川に出て製造を続け、風向きによって川岸の人家から苦情が出ると、川上の天神橋、天満橋、川下の玉江橋まで上ったり下ったり逃げるように船を移動させ製造を続けます。この恭安等の熱心さには、半ばあきれたように「福翁自伝」に福沢諭吉は書いています。
 恭安は適塾3年間の修行を終えると、九州肥前大村藩の侍医として、200石で迎えられた程の有能な医者でした。しかし、4〜5年後辞して郷里琴平に帰り金光院の侍医となります。
 そして、明治二年商業の町として栄えていた、仁尾村の蓮華寺(常徳寺の末寺・覚城院の北側にあった)で医院を開業します。
 明治十年西南戦争か起こると、適塾の先輩佐野常民(日本赤十字社創立)に乞われ軍医として従軍します。戦後は妻を伴い仁尾に帰り村民の治療や、当時流行した天然痘やコレラの治療と種痘の普及など、先進の医学で仁尾村に貢献しています。
 明治十六年三月一日仁尾村で波乱の生涯を閉じます。享年五十歳。

(追記) 矢田常徳寺東通用門前に通称『lまうそう(痛癒)かみさん』と呼ばれていた、石粉石(凝灰岩)で造った祠(同)墓が昭和63年頃まで存在していた。恭安さんの墓石かも‥‥。


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この映像は八朔人形まつり2005において、香川県親善人形の会員による
紙芝居「中村恭安の生涯」を記録したビデオです。
香川県親善人形の会のホームページはこちらから